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月刊メディカルサロン「診断」

「管理する」と健康管理学と国家観月刊メディカルサロン2011年11月号

「管理する」とは?

「管理する」とは?「きちっと管理せよ」「管理ができていないぞ」などの表現が世間では頻出しますが、「管理するというのはどうすること?」と聞かれると、正確に答えるのは難しくなります。法人組織内では、人事管理、経理管理などと当たり前に用いられ、個人に対して、管理能力のレベルが問われたりもします。中間管理職という用語もあるくらいで、これは、直感的には「命令系統の中継点」「下の者を見張ること」くらいのイメージしか持たれていないように思います。

「管理能力がないからあいつは出世できないのだ」などの表現があるくらいですから、「管理」というものに対して無関心ではいられません。一昔前は、離婚という事象に対して、「管理能力がない」というレッテルを貼られることもありました。「管理する」という用語の意味が漠然としているから、当然、「健康管理とはどうすること?」の答えも曖昧なのです。
「間違えるな」や「整理せよ」とは異なる次元で「管理せよ」という言葉があることから察すると、管理とは、単なる「ミスの防止や整理整頓」とは違います。何となく「進捗中の行為が、路線を外したり、間違えたりしないようにチェックと修正を繰り返すこと」のように思えてきます。しかし、それでも釈然としません。

この「管理する」という表現をいろいろ考え、深めていくと、最終的に「実現したい未来像、目標というものが不可欠である」ことに気がつきます。目標があるから、それを実現するための途中過程において、路線の外れやミスの存在、集中的な投資ポイントなどに気付き、実現への効率性を検討することができるのです。つまり、設定された未来像があり、それを実現するための諸行為を「管理」というような気がします。
たとえば、「わが社においては、従業員の役割分担、人間関係、出世へのシステム、働く人の心得はこうであることを理想とする」というものを具体的に掲げ、それを実現するために取り組む諸行為を人事管理というのでしょう。

身体の未来像

私はかつて、そのようなことを考え、健康管理には自分の身体の未来像、つまり目標が必要であると説いてきました。未来像は、
「90歳を超えても、頭脳明晰で、自分の足でどこにでも行けて、意欲高く、疲れを知らず、見た目の姿は50歳」
であるべきだと説示し、それを実現するために取り組む諸行為が健康管理であると説き、その「諸行為」がどういうものでああるかを研究してきました。
そして、その健康管理の未来像は三分類されることに気付きました。

「90歳を超えるまで生きていること」が、まず大事です。そのための秘訣は、90歳までに死ぬような病気にかからないことです。心筋梗塞、脳梗塞、クモ膜下出血、肺ガンなど、死ぬような病気を列挙し、その一つ一つに対して、各人が「起りやすい身体」「起こり得る身体」「起こりようがない身体」のどれであるかを分析し、予防対策、改善策を講じ、指導、実行していきます。これを寿命管理といいます。
「頭脳明晰で、自分の足でどこにでも行けて、意欲高く、疲れを知らず」を体調管理といいます。その内容は、知的能力、身体能力、意欲、疲労回復力の四つになり、それらがキーワードとなります。
「見た目の姿が50歳」を容姿管理といいます。キーワードは、素肌と体型です。

健康管理に目標を設定し、その内容を寿命管理学、体調管理学、容姿管理学に三分類した結果、各部門を深め、学問化を急速に進めることができました。つまり、「健康管理の学問化」という私の生涯テーマが実現への道に乗ったのです。私はその研究に邁進し、時間とともに成果を確保しています。ときどき、「なぜ、学会発表しないの?」という質問を受けることがありますが、それに対しては次のように答えています。

「私はその学問を築いて世の中に普及させることに強い使命感を持っており、学会内での知名度の向上、立身出世には関心を持っていません。また、最終像まで睨んで、それを実現するという強い意志があるときは、途中経過を小出しにして発表するべきではありません。足を引っ張りたがる連中が大勢いるのはどの業界でも同じです。健康管理学を完成させるという目標を実現するうえでの管理体制上、小出しに発表するのは望ましくないと判断したのです」

しかし、健康管理学を学問として集大成させたうえで、私自身が65歳になったら、一気に学会発表を行い、学会を席捲するつもりです。学会で活動するのは65歳以後とし、それまでは、一般世間に書籍を提供し、多くの人の声を集めながら、民間で健康管理学を醸成していこうと思っています。集大成を目論む者は秘力を散じてはいけないのです。それも管理の一環です。

国家の未来像

国家の未来像さて、話は戻ります。「管理する」と、「未来像、目標の設定」は表裏一体であることを前述しました。これを国家に対して当てはめて考えてみたいのです。

「日本国は、このような国であるべきだ」という未来像はどうなっているのでしょうか?明治維新のころは、「殖産興業、富国強兵」というわかりやすい未来像が打ち出されていました。当然に批判勢力もいたと思いますが、結局は、ほぼ全国民がそこに邁進し、先進国に追いついたのだと思います。
現代において日本国の未来像はどのようなものとして打ち出されているのでしょうか?それがピンときません。未来像がなければ、真の管理は存在しません。「管理」の名を借りた迷走的な間違い探しがあるだけになります。
と、理屈で考えると、まさに気がつくのですが、今の日本の政治、マスコミを見ていると、間違い探しとその詰問口調の世界になっています。諸問題の原点は国家の未来像がないことです。

国家の未来像がないのですから、国内の諸分野、国外交渉においてどうあるべきかが定まりません。たとえば、電力供給という一分野をとっても、明治維新のころには「全国隅々まで電力を行き渡らせる」という未来像があり、それが実現されたのちは、「安価で」「CO2排出が少ない」が加算されました。今、震災を経験して、電力供給の未来像が定まらないのは、既得権益者の抵抗が関与しているのは間違いないですが、その前提となる「日本の国の未来像」がないからなのです。仮に「リスクと闘いながらも経済発展、外貨獲得を国是とする」という未来像があれば決着はあっけなくついてしまいます。真逆の「すでに獲得した外貨で満足し、経済発展、外貨獲得は結果論としてでも、安全、安心で内需中心型の住みよい国にする」という未来像があれば、これまたあっけなく決着がついてしまいます。

この日本国の未来像に関しては、私もまだ検討中です。漠然と
「世界のあらゆる人々が、日本をうらやみ、日本国籍を取得して日本に住みたい、と思う国にしなければならない」
と思っているくらいです。

国家の未来像がないから、高齢化社会を迎えて、資金徴収と資金配分のあるべき未来像も当然存在せず、医療費や年金に関して、貧しい現役世代から徴収し、富の70%以上を握る豊かな高齢者に配分するというあり得ない事態が惰性的に、平然と生じているのです。国家の未来像がないから、公務員どうあるべきかさえ定まらず、場当たり的権益拡大が目に付くのです。

このように、日本国は組織態としては末期的に悲惨な状態ですから、スーパーヒーローとして君臨するリーダーが現れ、
「我が国は、古来よりこのような歴史を持つ国であり、閉鎖された島国という特徴の中でこのような文化、人間関係が育ち、さらに西洋文化を吸収することにより、このような国へと変貌してきた。人口構成はこのような変化をたどり、旧来型の人間関係はこのような型へと変貌し、一方で、経済はこのような特徴を持って成長してきた。今、我が国は、我が国のあるべき姿として、このような国を目指さなければいけない」
を高らかに掲げ、その中の分類として、
「公務員どうあるべきか、立身出世を夢見る人に対してどうあるべきか、平凡だけど安定した人生を望む人にはどうあるべきか、投げやりの人生になっている人に対してどうあるべきか、青少年の教育どうあるべきか、国際取引どうあるべきか、農業どうあるべきか、富の徴収と再分配どうあるべきか」
などの各部未来像を構築し、それを実現するための管理体制を築いてくれるのを期待せざるを得なくなる日が来ることでしょう。

「管理」をテーマとすると思わぬ方向に思索がすすむものですね。

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