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月刊メディカルサロン「診断」

人間社会における雇用形態の歴史的発生原点月刊メディカルサロン2013年3月号

先日、衆議院の総選挙がありましたが、どこかの党の誰かが相変わらず叫んでいました。
「同一労働、同一賃金。私たちはそれを求めます」
バブル崩壊以後の二十数年の経験で、経済が繁栄しなければ労働条件どころか雇用そのものが成り立たないということが明白になっているのに、いまだにそんなことを叫んでいることが笑えます。
近年、雇用形態が多様化したといわれます。正社員、契約社員、派遣社員、パート・・・。雇用形態は人の行動、人の心理、人の志向性の結果としての社会の一形式ですから、種々の雇用形態は近年になって急に芽生えたものだといわれても、「そうかなあ?昔から、そうだったのじゃないかなあ」という気分になります。この観点を解きほぐしてみましょう。

人は何のために仕事するのかというと、収入を得て生活するために必要だからです。生活の基本は「衣食住」で、その三つがないと生活そのものが成り立ちません。衣食住を最低限度で満たすことができない状況を、一般的には「食っていけない」と表現します。「こんな収入では、食っていけないよ」と表現する、あの「食っていけない」です。ただ食料が不足するという意味ではなく、衣食住の全体を総括している表現でしょう。そこで、「食っていくために」という人類の歴史を振り返ってみましょう。

人類が誕生したとき、生活の基本は狩猟生活でした。仲間となる数人、あるいは十数人で集まり、協力し合って食料となるものを獲得する生活だったと思います。木の実、草の根、穀類など何か食べられる物を探し歩いていたことでしょう。身体を維持するためにはタンパク質が必要ですから、他の動物を捕まえて食べるという狩りも行っていたはずです。

仲間というのは、血縁の集団であったろうと想像されます。血縁集団の人数が増えると、人間的相性が合う・合わないという問題が発生しますので、その相性の合う者同士が一集団となり、袂を分かつという現象が生じたことと思います。そのようにして小集団が増えて、世界中に人類が広がっていったのでしょう。なお、最近の研究ではその発生の大元はアフリカの中央部だそうです。

この時代は、その日に食べるものをその日に獲得するという生活だったと思います。獲物を求めてさまよっていたのかもしれませんし、獲物が近寄って来るところに居を構えていたのかもしれません。飢えた集団を見かけたときに、飢えていない集団がどのように対応したかは不明です。また、1つの獲物を争って集団同士の戦いが生じたかどうかも不明です。恋愛というものがどのような形式で存在したかも不明です。しかし、腕力、体力が優れており、動きが素早いなど狩猟技術の優れた男が重宝されたであろうことは、容易に想像されます。地図を読む能力、空間を認識する能力は、女より男の方が優れているとされていますが、男の脳は狩猟活動の中で育った要素が大きいのでしょう。
まあ、ある意味で平和な時代だったと思いますが、寿命は短かったようです(平均寿命は37歳くらいであったと推定されています)。

やがて、人類は農耕を覚えました。「その日に食べるものをその日に獲得する」という生活から、毎年一定の時期に収穫を得るという生活を覚えたのです。小集団が一定の土地を得て、そこで農業を営むようになりました。仲良く協力し合って農耕をおこなっていたであろうと推測されます。もちろん狩猟活動も併用していたはずです。しかし、ここで狩猟生活だけのころにはなかった劇的な変化が起こります。農産物はストックすることができるのです。そのストックで一年間を食っていくのですが、このストックをめぐって人間社会が変わります。

苦労して農耕をおこない、やっと収穫した農産物を奪ってやろうとする輩が現れます。いわゆる盗賊です。現代においては、盗賊行為は自然法的に違法行為ですが、この原始的な生活環境にあっては、違法など関係ありません(自然法=盗む、殺すなど世界中のどこに行っても違法とされるもの。反対語は特別法=その国独自の法律)。食っていけるようにすることが正義であったのだろうと思います。

盗賊が現れる時代になった時、単に狩猟や農耕で食べ物を得るという仕事以外に、獲得した食べ物を奪われないように守るという仕事が必要になったのです。「守る」というのは、奪いにきた相手と戦うということを意味します。しかも、本当に命をかけた戦いです。いかに原始的な時代でも、命を失うのは辛かったろうと思います。そこで、戦いで負けないようにするため、格闘技術を進歩させなければいけなくなりました。直接的には武器を持ち、その武器を進歩させることに取り組むようになったのです。

この頃から、未熟ながら職種の多様化が芽生えたと思われます。血族で構成される小集団を形成して、一つの土地で、皆で仲良く協力し合って農耕をおこない、その土地から得られる産物で食っていき、同時に、体力のある武装した男たちが、農産物のストックを守るという生活が成立したのです。血族集団で手分けして生活していますから、雇用形態という概念はまだ芽生えていないことと思います。ただし、この頃でも「俺はいざとなった時は命をかけて戦うから、日ごろの農作業は勘弁してくれ」という男は現れていたであろうと思います。一方では、「俺は戦うのは怖くて嫌だ。死にたくないし。まじめに農作業を行うから戦いは勘弁してくれ」という男も多かったと思われます。「田植えの時と刈入れの時だけは一生懸命に仕事するから、その他の時は放浪の旅に出させてくれ」という男もいたことでしょう。これが後世には、支配階級と被支配階級へと分かれていく原点であるように思いますし、中世、現代に向かって、雇用形態が多様化していく発生点かもしれません。

さて、ここまでは世界共通のお話ですが、ここで我が国日本に目を転じてみましょう。

農耕がおこなわれるようになった弥生時代に、あちこちにできた小集団は徐々に統合され、小さな国家が割拠した邪馬台国の時代を経て、五世紀には近畿圏を中心として、中国地方、四国地方、九州の北半分を支配する大和政権へと統合されていきました。この時代は、各地に小集団の支配者がいて、その支配者が自分の土地を持つ豪族として君臨していました。大和朝廷は、祭祀的な何かを統合のシンボルとして、その豪族たちの連合政権として存在していたであろう、と思われます。

そのような国家体制でしたが、西暦六四五年以後、大化の改新という奇跡的な体制変換が行われました。大きな戦争を起こすことなく、一つの暗殺を契機に各地の豪族が持っている土地を取りあげて、すべての土地、さらに人民は天皇のものであるという公地公民の制を築き上げたのです。この奇跡を成し遂げた背景がどのようなものであったのかはよくわかりません。天皇に強力な軍事力があったのかどうかも定かではありません。しかし、日本は後世に、「廃藩置県、版籍奉還」という奇跡を成し遂げていますので、世界的に類を見ない妙な(?)国民性があるのだろう、と推測することはできます。ところで、大化の改新後は、各地を統制するために国司、郡司が設置されました。農民が食っていくのに必要な量の食物のみを残し、残りを税として徴収する国家体制が出来上がったのです。

さて、公地公民の制を実現し、数十年かけて中央集権国家の態を作りましたが、西暦723年に三世一身の法、西暦743年に墾田永年私財の法が布告され様子が変わり始めます。おそらく、大化の改新から奈良時代の初期にかけて人口がかなり増え、既存の土地からの収穫では全国民が食っていくのが難しくなったのであろうと思われます。開墾して土地を増やせばいいのですが、「公地公民の制」の下では、苦労して開墾しても、その土地は天皇のものになってしまいます。そこで、開墾した農地は自分の私有物にできるという決まりが成立、さらに、その土地からの収穫には税(いわゆる租庸調)が課されないことになりました。まさに私有物です。各地で農耕にあたっている小集団の開墾意欲はマックス状態に高まったことでしょう。各地で開墾が進み、私有物としての土地が増えていきました。

税を課さなければ、その分野がやたらと伸びるのは、古今東西を通じて同じ現象であるように思えます。今の日本であれば、上場企業の株の配当や譲渡益に対する課税をなくしてしまえば、株価は上昇し、年金財政が一気に潤うかもしれません(配当利回りが他の投資に対して割高であるのがポイントです)。もっとも、さらなる未来像を見据えるとどうなるかはわかりませんので、現時点では私の戯言にすぎません。
日本の医療社会では、健康保険の点数を高く設定すれば、その分野がやたらと増えます。かつて、腎不全患者に対する人工透析の保険点数が異常に高く設定されていたとき、日本中に透析病院が配置されました。日本の隅々にまで透析施設が広まると、保険点数は切り下げられました。利用されている社会法則は同じです。現在は、調剤料や訪問診療の保険点数が高く設定されています。これらが日本の隅々に普及した後、どうなっていくか見ものです。

さて、平安時代に開墾が奨励され私有地が増えていきますが、開墾の主体者は誰だったのでしょうか?もともと、公地公民の制度下で、日本の各地に土地を耕している血族的な小集団が大勢います。その小集団が土地を開墾したのは間違いありません。しかし、積極的に開墾したのは、「○○天皇の流れを汲む」などの由緒正しい血筋を有する人たちであったようです。あるいは、小集団がそのような血筋を持つ人を推戴して、開墾をすすめたのかもしれません。さすがに、「すべての土地は天皇のものである」と教えられ育ってきているので、開墾した土地に君臨するミニ領主の座は、「天皇の流れを汲む」などの血筋を持つ人へと譲ったのでしょう。

何はともあれ、私有地が増えると、武装して盗賊から身を守るという必要性が高まるのは世界的な常識です。しかし、ここで日本では不思議な現象が起こります。生産物を盗賊から守るための最小限の武装はしたと思われますが、開墾したその土地の権利を確保するために、強力に武装するよりも、その土地を中央政界の名のある人に「寄進する」という手法をとったのです。上納金を支払うことにより「この土地は、藤原○○様に寄進したものである。他人が手出しして、○○様の顔をつぶしたら、ひどい目にあうぞ」と語れる形式を採用したのです。平安時代は、それほどに平和な時代だったのでしょう。そういえば、平安時代に各地に強力な軍隊が配置されていたという話を聞きません。また中央政界にも強い軍隊はいなかったようです。11世紀半ばに源頼義が奥州征伐に向かった「前9年の役」でも中央から強力な軍隊を連れて行ったというわけではなく、関東、東海の各地の農地から武士に参集を促して、自己の軍隊としたようです。そのようにして、日本史上「荘園」といわれる新規開墾農地が広がっていきました。

開墾した土地に対する権利確保をどうするべきかで悩む時代が続きます。平安時代の中期までは寄進という手法を取っていましたが、10世紀半ばに、平将門、藤原純友による承平天慶の乱が勃発し、中央政界には「名前はあれども武力なし」の気配が地方に伝わると、様相が変わってきました。「この土地は、藤原○○様に寄進したものである・・・」という話が通用しなくなってきたのです。
その結果、結局は武力による権利確保へと時代は進まざるを得なくなりました。誰かに守ってもらうのではなく、自分の力で守るしかないという路線になったのです。自分が守るべき土地を命がけで守るという心得をもって、格闘技術を磨き、武装して、武士が誕生したのです。なお、「一生懸命」という語がありますが、昔は、一つの土地を命がけで守るの意味から、「一所懸命」と言われていました。一つの土地を耕作するための人間集団が存在し、その中のミニ頭領を中心として、勇気のある男が武士になったのです。と言っても、その武士はいつも戦っているわけではなく、日頃は皆と一緒に農業に従事しています。戦いがある時だけ武装するのです。

しかし、「この土地を自分の武力で守るしかない」という覚悟を決める一方で、その土地の所有権に関して「保証してもらうための大義名分が欲しい」という思いは続きました。もともとは天皇の土地であるという先入観があるために、「完全に自分のものです」というのには強い憚りがあったのです。その思いが、後に武家政権である鎌倉幕府を樹立させることになるのです。
11世紀の前9年の役、後3年の役の頃には、土地を守るために命をかける武装集団がほぼ完全に形成されていたようです。そして12世紀の保元の乱、平治の乱、源平合戦の時代へと進みます。

平安中~末期の頃の戦をみてみると、一人の武士の周囲に数人の中間(ちゅうげん)・小者といわれる者が侍っており、その武士が「やあ、やあ、われこそは、どこの住人、だれだれなり」、「われと思わんものは出でて、戦え」と叫びます。そして、敵方から名乗り上げた武士が出てくると、戦って決着をつけるのです。まさに命を賭けた戦いです。勝ったほうが、相手の首を討ち取ります。その際に、負けたほうの中間・小者は逃げ散り、勝ったほうは、首のない敵の死体の鎧や武器を奪い取るのです。そんな中間・小者たちですが、戦争がない時は、農耕を営んでいるのでしょう。
この時点ですでに武士と中間・小者という仕事の分担が生まれていることに注目です。さらに時代が進めば、「武士の子は武士である」という生まれながらの身分差ができるのですが、平安時代中~末期の時点で、1人の男が武士になるか、中間・小者になるかの決定的な違いは何だったのでしょうか?血筋の差はあったと思いますが、決定的なのは、「その土地のために命を賭けようとするかしないかの心構え」と「勇気」の差であったであろうと私は推測しています。現代的には、正社員とその他の雇用形態という違いかもしれません。

土地に対する権利保障が曖昧であった平安時代末期に、ミニ領主たちは源頼朝に希望の灯を見いだしました。前9年の役で関東一帯に義を示してくれた源頼義の嫡流にあたる源頼朝なら、自分たちが開墾した土地に対して権利を保障してくれる仕組みを作ってくれるのではないかと期待したのです。そして、頼朝の元に自分たちが開拓した土地で養った人員(=武士と中間・小者)をひきつれて参集しました。頼朝は見事にその期待にこたえ、ミニ領主に「地頭」という地位を与え、京都の朝廷に対抗する鎌倉幕府を開き、開墾した土地に根差した武装勢力を統括する独自の行政機構を築いたのです。

この時代は二元支配の時代と言っても過言ではなかったと思います。京都には天皇を中心とする朝廷が存在し、独自に政治をとりおこなっています。鎌倉幕府は、情報を伝達するための行政機関として各地域に守護を設置、同時に、その守護に地頭同士の争いを裁く司法権を一部与えました。とはいえ、この時代の守護は、守護自身が強い武装勢力とはならず、基本的には鎌倉幕府からの情報を伝達する一行政機関に過ぎなかったのは間違いありません。
頼朝が優れているのは、武士たちが朝廷から直接の官職をもらうことを禁止したところです。弟の義経が官職をもらったところ、それを責めてついには討ち滅ぼしてしまい、このことに対する見せしめとしました。「武士は朝廷から官職をもらってはいけない」という掟は徹底され、武士たちに対する将軍頼朝の権威、統制力は大いに高まりました。
この時代は武器や農具、衣服を作るための工業は発達していましたが、商業の発達はまだまだというところで、農業本位の世の中であったのは間違いないところだと思います。ただし、奥州でとれる砂金が時代の表舞台に出ていますので、金を仲介とする物流の世界は芽生えていたかもしれません。「地頭」の肩書をもらったミニ領主が支配する土地に対する人員構成は、武士、中間・小者、農作しかできない者(戦場に行きたくない者)の3つであったと思います。

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇の建武の新政、次いで南北朝、足利幕府の混乱期へと進みます。その間に中央組織の統制力は日に日に低下し、守護は強い武装勢力と化し、領内のミニ領主たちへの土地権利の確保役を担うようになります。戦国大名の芽生えです。一つの土地の中では、ミニ領主のもとに、武士と中間・小者、農作業専従者(戦場に行きたくない者)の人間関係は維持されており、武士、中間・小者も、日ごろは農作業を行う人員として仕事しています。
結局、奈良時代以後長い年月をかけて、一つの土地の中に、武士になる者、中間・小者になる者、農作業専従者になる者へと分化したのです。自分がどこに分化するかの決定打は、「勇気の有無」であったように思います。その土地のボスがミニ首領(地頭)として君臨していますが、このミニ首領には、「先祖は天皇家から臣籍降下した」「摂関家の○○の血縁」などの血筋をもつ者のうち、勇気のある者が就くことになったのでしょう。大化の改新以後、三世一身の法、墾田永年私財の法が施行されるまでは公地公民であり、土地はすべて天皇のものであるという前提の世の中でしたから、ミニ首領が生まれるにあたって、天皇家(臣籍に降下した者を含む)や摂関家の血筋が重視されたであろうことは容易に想像されます。

やがて、応仁の乱が発生します。室町幕府や朝廷などの中央組織の権威は著しく低下し、全国末端の土地に対する権利保障に関して何の役にも立たなくなりました。しかも、各土地で武装化が進んでいます。武力を元手にした土地の奪い合いが始まりました。あちこちで起こったミニ戦争の結果、土地を失った難民、つまり、土地に定着しない流浪の民が生まれました。私の想像ですが、流浪の民になるのは、元中間・小者であるように思います。
農作業専従者は貴重な労働力になるので、新領主にとって有害になることはありません。勇気もなく、出世意欲もなく、あまり文句も言わず身体を使って働いてくれる彼らは、新領主にとってはいい人材です。現代でも、この雇用形態はすぐに思い浮かぶことでしょう。
元武士は、戦争で討ち取られたか、もともと持ち合わせている勇気が認められて、別のミニ領主の元で武士として再雇用されているかのどちらかです。
というわけで、戦国化して流浪の民になるのは、中途半端に勇気があるために、不平や不満を述べようとする元中間・小者であったのではなかろうかと思うのです。
流浪の民は食っていくのが大変です。その時々に応じて、食べ物を与えてくれるところに所属するしかありません。食べ物を与える方は、「この男は、土地に定着している者ではない。この土地のために命がけになろうとするものでもない。どうせ食い物を与えてくれるほかの土地に移動していくであろう」という目で見ています。流浪の民の立場としては「あっちの水は甘いよ」と食っていくために流れていかざるをえません。この流浪の民は、やがて足軽と言われるようになりました。現代でも、この雇用形態はすぐに思い浮かぶことでしょう。

戦国の世となり、土地の奪い合いが始まるとミニ領主は困惑します。特に、攻め込んで他の土地を奪う自信のないミニ領主は困ります。どうやってこの土地に対する権利を保持していこうか悩むのです。
悩んだ末に選択したのは、戦争に強く、自分を認めてくれる領主に帰属し、いくらかの上納金を支払うかわりに土地に対する権利を保証してもらうというものでした。その結果、戦争に強い領主の配下には、土地を持つミニ領主が増えることになり、拡大した勢力のもと戦国大名が誕生したのです。
強い領主に帰属するのを拒否したミニ領主は、自分の土地を自分だけで守る独立小豪族として存在することになりました。攻め込む力はないけれど、守る力はある場合です。しかし、独立小豪族もいつまでもそのままではいられません。自分の土地を挟んだA国とB国が戦争になれば、自分の土地が蹂躙されますので、どちらかに属さざるを得なくなります。つまり、独立小豪族は、より自分の土地の権利保障をしてくれそうな国側の傭兵として戦わざるを得なくなるのです。この傭兵としての存在に対しては、現代の日本の雇用形態でもすぐに思い浮かぶものがあることでしょう。
独立を保とうと努力した傭兵隊もいるでしょうが、結局、戦国途上でどこかの大領主に組み込まれることになります。
このようにして戦乱の世になりましたが、やがて、織田信長、豊臣秀吉らにより終結されたのです。

土地に対する日本の歴史の動きから、人の役割分担を検討すると、現代にも通じる雇用形態、あるいは人間集団の人事構成の形態が見えてきます。
武士に必要なのは、血筋と勇気でした。現代において血筋に相当するのは学歴だと思って差し支えありません。平安時代から戦国の時代の「○○天皇の流れを汲む」などに匹敵するものが学歴であり、だから、学生はより高学歴を得るために努力しているのです。しかし、学歴があるだけではいけません。戦いの現場で命をかける武士には、勇気が必要です。勇敢であることが絶対条件なのです。

現代的な仕事での勇気とは何か?誰もが漠然としながらも、「ああ、これが仕事現場での勇気というものだな」と感じるものは持っていることでしょう。武士は土地を守るために勇敢に命を賭けて闘いました。中間・小者はその武士のそばに侍って、その武士の手伝いをしていました。
武士は現代的の正社員に値します。中間・小者には、武士に尽くして長い期間務めている者もいれば、一時雇いの者も多かったようで、「ヒマを与える」という表現の解雇が頻発していたようです。つまり、中間・小者には二系統あることが分かります。前者は正社員に、後者はパートに相当するというところでしょうか。武士は正社員であり、中間・小者の前者も正社員ですから、正社員にも二系統存在することになります。武士的な正社員と中間・小者的な正社員です。

命をかけて守る土地を持たないものは、流浪の民と総称され、戦国の時代では足軽に相当します。「ここに今の働き口がある」「あっちの水は甘そうだから、あっちに行こう」など、深層心理的に会社の事業目的に対して運命共同体になれないという本能を持つ者は、足軽としての人生になります。現代的においても、このような心得で仕事をしている人は大勢います。この足軽群に値するものとして、派遣社員やパート、その他の雇用形態が生まれています。
特別な技能を持って、一時的にどこかの組織にとって有意義な技量を提供する仕事があります。戦国の時代では、傭兵部隊と言われていました。現代的には、契約社員というところでしょうか。外注という形態をとることもあるようです。
一方で、領主が変わっても淡々と仕事を続けた農作業専従者がいます。現代の雇用形態ではどこに属されるのでしょうか?これらは戦後の高度経済成長期において正社員に相当していたのですが、現代は、正社員の座から排除されようとしています。

その人の生まれ持った本能、教育により身に着いた心構え、そして学歴(昔は血筋)などによって決まった生きざまを、誰かに判定し、雇用形式が定まります。やみくもに「正社員になりたい」と思っても、選ぶ方に「武士としての心構えなし」「足軽相当である」と判定されれば、正社員にはなれません。また、会社の中に守るべきものを持ち、命がけにならなければいけないという心構えがないまま正社員になってしまうと、苦痛で耐えられない日々を送ることになります。
結局は自分が落ち着く雇用形態があり、その中に身をおいて生涯を送ることになるのです。そして、その雇用形態に応じた待遇が待っています。
武士としての人生、中間・小物としての人生、足軽としての人生、傭兵隊としての人生・・・。どの人生を選択するかを若い頃、できれば中学生までにその選択を問うような教育システムにしたいものかな、という思いが浮かんできます。

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