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月刊メディカルサロン「診断」

オリンピック議論掲載日2016年11月3日
月刊メディカルサロン12月号

小池都政の実現以来、オリンピック開催に関するコスト問題に大きな関心が呼び寄せられています。もともとは「7000億円でできる」と言われていたものが、「全体として3兆円以上になる」という総コスト的な話から始まり、徐々に個別具体論へと移動し、水泳、ボート・カヌー、バレーボールの会場問題へと収束した状態を経ました。マスコミ中心に侃々諤々の事態でした。

侃々諤々といえば

診療現場でよくある話を一つ紹介します。手術や抗がん剤投与などの大掛かりな治療を行う際に、家族や関係者を集めて、病状や予定している治療内容の説明会を開催することがあります。
医師側の立場では、「こういうことを説明して、家族の同意を得た」という一言をカルテに記載することが目的になります。カルテに、「すべてお任せします、との回答を得た」と記載することができたら大成功です。
説明会では、どれくらい深く説明するかが重要です。深く説明しすぎると、家族や関係者が想定外の議論を始めてしまい、ちょっとやそっとでは家族の同意を得ることができなくなります。かといって、浅すぎると後のトラブルの問題になります。「深すぎず、浅すぎず」をコントロールしなければいけないのです。
深く説明しすぎたらどうなるかというと、家族や関係者は内部で大きく揉めはじめます。プロである医師から見ると、「はあ、なんでそんな議論になるの?」と意表を突かれる方向へと展開していくこともしばしばです。
家族の中には、いろんなことを言う人が出てきます。「俺の知人が、手術をしたらこんな目にあった」と誰かが言えば、それをめぐって、しばらく議論がそれてしまいます。「その治療を進めるかどうかは、セカンドオピニオンを集めてからだよ」と言う人も現れます。侃々諤々の末、ついにまとまらず、「しばらく考えさせてもらっていいですか」と言い出して、治療スケジュールそのものに悪影響を与えることも少なくありません。

有識格差と知的好奇心

しかし、ほとんどの場合「その治療でお願いします」という結論になります。医師の立場では、「治療の方針はこれしかないのに、なんでこんな目にあうのだ」という呆れた気分になるものです。なぜ、深く説明しすぎると、このような事態になるのでしょうか?
このシーンに存在するのは、有識格差と知的好奇心です。医療、人体、健康に関して、医師と患者・家族の間には、知識の断層が激しすぎます。これが有識格差です。そして、そのシーンに出会った時、「知る権利」が吹聴される時代ですので、抱いた知的好奇心をぶつけることができるのです。「生兵法はケガの元」と吹聴されていた時代は、知的好奇心を胸の奥にしまっておかなければいけませんでした。
結果的には、治療内容に対した変化はもたらされません。一方、治療のスケジュール遅延などをもたらしますが、有識格差は確実に縮まり、納得の度合いが大きいという成果を上げることができます。

議論が縮める有識格差

オリンピックの開催に関しては、プロとして取り組んできた人たちと、都民あるいは国民との間には、もともと強烈な有識格差があります。組織委員会は、昔の医師のように「こういう治療をするとこちらが決めたら、その治療をするのだ。何も知らないお前たちは黙っておれ」という気分でいるのでしょうが、それが今の日本社会では望ましくないことはいうまでもありません。
そんな矢先に、「ディスクロージャー(情報開示)、都民ファースト」を主張する小池都政が誕生し、都民の知的好奇心を沸騰させる展開に持ち込んだので、侃々諤々の議論へと展開されたのです。
これを通して、国民、都民は、納得の度合いを深めることができます。議論の結果は、多少のコストダウンという成果をもたらすでしょうが、都民の知的好奇心を満たし、納得を得て、有識格差の是正につながることが最大の成果です。今の日本社会においては、そこが大切なのだ、と最初から看破している小池氏はさすがだと思います。
有識格差の縮小は、社会の底上げに通じます。そういう観点から、オリンピックをめぐる議論を見ていると、日本社会は着実に成長しているのだなあと実感します。

国家予算について思う

ふと、私は大学院生時代の「文部省科学研究費」のことを思い出します。毎年、一定の時期に「こんな研究を進めますので、研究費をください」という申請書類を書くのです。
その結果、研究費をいくらかでももらえたら、「当たった」と言って大喜びします。最末端の研究者である大学院生レベルでも、1件あたり20万円くらいのものから400万円くらいのものまでありました。獲得した予算は研究室に入ります。それを研究費の一部として、研究活動を進めるのです。
「こんな研究を進めますから、予算をください」という申請をするのですから、初めて申請書を書くときには、とても緊張したのを覚えています。そして、ホントにこんな研究を進められるのかなあ、という不安もありました。先輩に相談すると、大笑いされ、次のように諭されました。
「研究費はもらってしまえば、それで終わりだ。そのお金を使って、実際にどんなことをしているかなど、誰も調べて来ない。申請書を書くというのは、研究費をぶんどるための、ただの作文だと思えばよい」
私はあっけにとられましたが、とりあえず、真面目に初めての申請書を提出しました。そして、当たりました。さらに、その後は何の調査もなく、金銭の使い道に関して何の追及もないことを自身で確認しました。以後の申請は、先輩に教わった通り「ただの作文」になり果てました。そして、後輩に同じように教える自分になり下がりました。

国家予算に関して、最末端の者までがこのような心得でいるのですから、上層部も同じようなものだと思えばいいでしょう。オリンピックなど、開催に持ち込むための書類、資料はすべて、「ただの作文である」と思っているのに相違ありません。申請が通ってしまえば、その後にどれほどコストが膨らんでも、「われ関せず」を貫けると思っているのが、政府、お役人の風潮と思って間違いありません。だから、事前に「予算は7000億円」などと言われていても、それは「大人の対応」でスルーしてあげて、その後にまじめにコスト問題を考えればいいと思います。

おわりに

どれほどコストがかかっても、どっちみち日本国内で回るお金です。最終的な損失になるわけではありません。事後の遺物≒レガシーを考えることには大きな価値があります。小池都政はそこに焦点を当てていますから、安心して見ていられます。
資金が不足したら、東京以外に住所を置いて活躍している人に、オリンピックの会場チケットを「お礼の品」として、ふるさと納税に持ち込めばいいです(地方に叱られる提案ですので、この話はなかったことにしたほうがいいかも)。
しかし、日本社会も、世界の先進国と同様に貧富の格差が広がっていますので、オリンピックを利用して、富裕層のストックを少しでも多く吐き出させて、都全体にめぐるように持ち込めたら、その分は貧富の格差の多少縮小され、ひとつの価値となるのではないかと思っています。

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