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月刊メディカルサロン「診断」

診察室の医師を縛るもの(下)掲載日2017年6月3日
月刊メディカルサロン7月号

患者と面している医師は、7つの周辺事象に縛られています。診察室にいる医師もその7つのために、苦しい立場の中で仕事していると言っても過言ではありません。前回はそのうちの3つを話しました。今回は、その続きをお話しします。

4)収益問題

病院組織を維持するためには莫大な費用がかかります。高額の人件費を要する人材がたくさん仕事しているだけでなく、どんどん新鋭化し、そして高額化する医療機器を、リースやローンで入手しますので、毎月の出費は馬鹿になりません。
それを上回る収入がなければ赤字になり、それが積もれば債務超過になり、経営が成り立たなくなります。
病院経営が成り立たなければ病院が存続できくなり、それは医師個人の問題ではなく、地域住民を巻き込む大事態へと発展します。
病院組織は、医師の行動と指示によってのみ売上が発生します。医師の一人ひとりが収入上のプレッシャーを感じていないはずはありません。「医は仁術」であり、医師に収入的な計算をさせないでおく、というのが理想であることはわかっています。しかし、そんな志操を持つ医師に対しても、経営側が陰に陽にプレッシャーをかけて、その志操を消滅させようとします。

20年ほど前、ある大学病院で各科の医局に毎月の売上ノルマを課していることが露見し、業界内で問題視されました。しかし今では、問題視されないくらい常態化しています。病院組織を維持できてこその医療サービスなのです。
収入を計算するうえでは、健康保険制度上の点数設定に問題が帰します。「この医療行為はいくら」と行為ごとに点数が定められていますので、その点数をたくさん得ることが売上の確保につながります。
今の設定では、どんな角度からどんなに深く考慮しても、医療行為を数多く行うことが最良の売上向上になります。ゆえに、昔から揶揄されている「薬漬け、検査漬け」「説明不足」「3時間待ちの3分診療」から脱却することはできないのです。「会話と指導」で解決できる患者に対しても、薬漬けで対応することになってしまいます。

医療社会の未来を見据えれば、患者に、健康、人体、医療の教育を施すのが、もっとも重要であるとわかるのですが、診察室でそんなことをしているわけにはいかないのです。

5)設備の回転

CTなどの放射線機器やMRI、あるいは心臓カテーテル検査などの設備を揃えるのは、先進的な医療機関の責務です。救急医療の際は、抜群の威力を発揮します。その一方で、すべての機器には、購入費とメンテナンスコストが生じています。
「医は仁術」を盾にとって、「値下げ交渉などとんでもない」という風潮を作り、医療機器の業者側は、どの機器もフル稼働に近い稼働をさせ、医療機関を維持できるぎりぎりの金額設定で販売しています。つまり、病院側が「その機器をフル稼働させたら、どれだけの保険点数を得られるか」から逆算して機器の価格が定まっているのです。そのために、設備を投入すれば、無理やりにでも稼働させなければいけないという本能が医療機関側には働きます。過剰に検査を行ってしまう原点はそこに存在します。

視点を変えれば、病院の後ろには健康保険制度に巣食う医療機器の業者が存在し、そのプッシュアップにより、医師が「不要かな?」と思っていても「検査しましょう」と言ってしまう、いわゆる過剰診療に持ち込まざるを得ない実情が存在するのです。
日本のCT普及率は世界一です。それを稼働させるために医師は心に焦りを抱き、縛られています。結果、医療被ばくが高まり、そのためにガン患者を増やしているのです。

6)患者の要求

診察室で、「先生、そろそろ胃カメラやってください。年に1回やっていますから」と要求する患者がいます。「先生、あの薬くださいよ」と要求する患者もいます。
健康保険制度の原則は、「病気を訴える患者に対して、医師の診察による判断で執り行われる医療行為を金銭的に支援する」ですから、「患者から〇〇してほしい」と要求するのは論外です。しかし、現実的には頻発しています。
患者の要求をきっぱりと拒否できる医師はめったにいません。拒否すると診察室で面倒な展開になることがしばしばだからです。「カルテに、偽病名を書いておけばいいや」と判断して、患者の要求を受け入れます。
また、患者が勉強していて、「私のこの症状、こんな病気の可能性はないですか?」と尋ねてくる患者もいます。それを理屈だった説明で否定することは、実は、非常に面倒なのです。だから、「では、検査しましょう」とワンクッション置いて、検査結果を以て「その病気ではないようです」と持ち込むことになります。検査をすれば、収入増大にもなりますから、患者の要求を受け入れようとする傾向は高まります。

患者の要求は、医師の判断をまともに縛っているのです。蛇足ですが、このような背景もあって、「患者は何も知らない子羊でいてほしい」と思う本能が医師の中に宿ります。

7)学習の限界

医療は専門化が進んでいます。医師が手先を用いる専門技術は、特に特化傾向が目立ちます。
様々な治療法に対して、自分自身が直接の経験を持っているかどうかは、その分野の見識に関して極端な差になって現れます。自己の専門分野以外に関しては、知識が希薄になり、得意・不得意な分野が生まれることはやむを得ないでしょう。
しかしながら、やむを得ないこととはいえ、問題は自己の不得意分野を質問された時です。
特に医師が不得意とするのは、栄養学の分野です。栄養学、ひいては栄養素の高度利用となるサプリメントに関して、医師はほとんど知識を持っていません。不得意分野を尋ねられた時に、「詳細な知識はありません」と答えることができればいいのですが、「そんなものはダメだ」と否定することにより、自己の知識不足を隠そうとします。
サプリメントの件は一例ですが、医師は自己の知識不足の分野に対して、否定する傾向を持っています。
これらの現象からわかるのは、自己の学習レベル、つまり学習の限界が診察室内における医師を不本意に制約しているということなのです。

私は医師ですから、当然、知人に多くの医師がいます。どの医師も悪気を持っている人など、一人もいません。しかし、患者が疑念や不信、不納得を持ってしまうことが多々あります。
これらは、医師個人の問題ではなく、医療制度、医療組織、そして人間が持つ底辺本能に問題があるということを知ってほしいものです。そして、そこから生まれる診療現場の不信問題を発生させないようにしたいものです。
そのためにはどうしたらいいかを考えていくのが、健康保険を捨て、内科領域の医療を執り行い、超越した立場から医療社会を見つめることができる私の使命の一つであると思っています。

追記)いくつかの雑誌で医療不信を取り上げていますが、焦点を変えてほしいものだと思っています。

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