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月刊メディカルサロン「診断」

歴史考察:「たった一人」の観点から(上)掲載日2018年7月23日
月刊メディカルサロン9月号

プロローグ

100歳のおばあちゃんがいたとします。その娘は、70歳代です。その娘の子供、すなわち、おばあちゃんの孫は40歳代です。その孫の子は10歳代です。100年の間に、4人。つまり4代存在しています。 江戸時代より前は、平均寿命が40~60歳前後と短かったので、子供を産むのも早く、100年の間に5代存在しました。となると、1000年の間に50代。2000年で100代です。
皆さんのおじいちゃん、おばあちゃんを100代さかのぼれば、2000年前ということになります。我々の100代前の祖先は、西暦0年の前後のころ、この日本で、どんな生活をしていたのでしょうか?
車はあるはずがないし、舗装道路もない。だだっ広い原野があるだけです。電気、ガスはなく水道もありません。衣服など売っていません。おしゃれな家具もありません。オシャレな土器はあったかもしれません。
そんな中でも、「食わなければ生きていけない」のは絶対法則です。シカを追って、イノシシを捕らえて、木の実を摘んで、貝類や魚類を食べる。稲作が伝わり、「土地を持つ」ということに目覚める。その土地を守るために、武力が必要になり、やがて集合体になり、統率・統合のための権力が必要になる。そんなところに思いを巡らすのが、古代史ロマンの一環というものなのでしょう。

日本の歴史に思いを巡らしながら、自分独自の観点で考察を深めるのは楽しいものです。最近、日本の歴史の転換点についえ考えていたところ、「たった一人」というキーワードが思い浮かんできました。そして、「たった一人」で歴史を変えた人が4人いることに気づきました。皆さんも考えてみてください。

File(1) 中大兄皇子

その第一は、なんといっても中大兄皇子(後の天智天皇)です。ある儀式の際に太極殿に出仕した蘇我入鹿を皇極天皇の前で刺殺し、その後、一気に蘇我氏を滅ぼしました(乙巳の変)。そして、政治改革を断行し、公地公民の制を打ち立て、日本の土地、人民は、すべて天皇のものである、というシステムにしました(大化の改新)。
それまでは、各地に割拠する豪族が、自分の土地と自分の人民を持ち、その豪族たちの連合体として、朝廷が存在していました。当然、強盛を誇る豪族が、実権者として振舞うことになり、時には、その勢力が天皇家をしのぎ、その地位を奪い取る可能性を秘めます。しかし、この公地公民のシステムをつくり、それを人民の思想の中に吹き込み、洗脳状態を作り出すことで、「天皇家が乗っ取られる」という事態を未来永劫に消滅させました。
以後は、このシステムが、日本独自の国体の大元になっています。平安時代の藤原摂関家時代、武士の鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代を通じて、政治体制には、常に最高実権者がいるけれども、あくまでも、根本的な土地と人民の所有者である「天皇から政治を委任された」の態をとっています。

また、西暦743年施行の墾田永年私財法により、土地の私有的な体制が認められ、新規の開墾地が拓かれ、土地の所有者が増え、国衆(地方小豪族)が生まれ、途中経過では土地の奪い合いとなる戦国時代も存在し、一つの地域の支配者としての大名も君臨しましたが、明治維新において、版籍奉還が成し遂げられ、すべての土地と人民はいったん公(天皇)のものとなりました。それらも、日本人の思想の源流に、「日本の土地と人民はすべて天皇のもの」が潜んでいるからです。
「豪族が持つすべての土地と人民を取り上げ、天皇のものにする」など、よくやってのけたものと思いますが、その一歩目は、蘇我入鹿の暗殺です。入鹿自身も格闘術を身に着けているし、その周囲には多くの部下が取り巻いています。仮に暗殺に成功しても、逆上した部下たちに自分が惨殺されるシーンも当然のように脳裏に浮かびます。
中大兄皇子には、中臣鎌足やその他数人の協力者もいましたが、この乙巳の変は、中大兄皇子が、まさに「たった一人」で決断してやってのけたクーデターとみるべきです。以後の日本史を見てわかるように、合議によりクーデターを起こそうとして成功したものはありません(鹿ケ谷の陰謀など)。1300年以上前の「たった一人」の決断が、その後の日本の歴史を作り上げているのです。
「たった一人」の決断と勇気ある行動が、日本の大元の国体をつくりあげたのです。

File(2) 源頼朝

歴史を順に下って考えてみましょう。その次に「たった一人」の決断による歴史の転換と言えば、だれを思い浮かべるでしょうか?私は、躊躇なく源頼朝を挙げます。

1159年の平治の乱で、父の源義朝はじめ兄二人を失い、捕らえられた13歳の源頼朝は、当然、死罪となるところでした。ところが、運よく命を助けられ、伊豆半島の蛭が小島への流刑で済まされました(池禅尼の嘆願)。
頼朝は清和源氏の嫡流であり、前9年、後3年の役で活躍した源頼義、義家以来の源氏の跡を継ぐものです。源義家は、後3年の役を解決させたにもかかわらず、朝廷から褒美をもらえなかったので、ともに戦った関東の武士たちに、私財を投じて、苦労に報いています。その時のことを恩として、「わが家があるのは義家様のおかげ」と思っている人たちが関東一帯に潜んでいます(そんなこともあって、義家は弓矢の神様である「八幡神」から文字をとって、八幡太郎義家と呼ばれていました)。
伊豆に配流された源頼朝はどんな生活を送っていたのでしょうか。池禅尼の嘆願で命を許されたとはいえ、平氏にとっては危険極まりない人物です。配流時13歳だった頼朝は、厳しい監視の中、数人の友達くらいはできたと思われます。家柄、血流が重んじられる当時は、友達と言っても、それは主従関係的なものにはなるはずです。

監視の厳しさを物語るエピソードとして、伊豆半島の伊東一帯の豪族である伊東祐親の娘と頼朝が恋愛関係になってできた子供が、そのことを知った父の祐親によって殺されたというものがあります。
1180年、頼朝は妻となった北条政子の父である時政から兵を借りて挙兵しました。当時、北条氏は平氏の息がかりの一族です。義父から数十人の兵を借りたところで、強大な勢力を持つ平氏とまともに戦えるはずがありません。北条時政の立場では、頼朝に数十人の兵を貸したところで、強大な勢力を持つ平氏と戦えるはずがありません。自己の一族を滅亡させられるだけです。
伊東祐親の例があるように、兵を借りる話を北条時政に出すことそのものが命がけです。話を出した瞬間、命を失うかもしれません。しかし、頼朝は行動しました。その過程では妻の政子がどのように振舞ったかに大きな関心がありますが、それは後の北条政子の剛腕ぶりも考え合わせて、連想してください。
源頼朝は「たった一人」で決断しました(妻の助けはあったかもしれません)。わずかな兵を率いて反平氏の旗を立て、その鎮圧のために組織された平氏軍3000人と石橋山で正面衝突。当然のように惨敗し、しかし、命を失わず戦場を脱出することができ、安房の国(千葉県)へ逃れました。
さあ、そこからです。「あの勇気ある源氏の嫡子をボスとして、その下に集まろうではないか」と関東の豪族たちが続々と詰め掛け、あっという間に大勢力となり、平氏一族を滅亡させ、鎌倉時代を作ったのです。
源頼朝の挙兵は、大勢の豪族と合議したものではありません。「たった一人」で決断し、命がけの勇気で切り開き、その後ろに豪族たちを付き従えたのです。中世の武家政権の時代は、源頼朝の「たった一人」の決断で、幕開けとなったのです。

さて、次号では、「たった一人」の決断で歴史を変えた人を、さらに二人を挙げようと思います。一人は誰もが納得する人。もう一人は意外性があるかもしれません。思いを巡らせてみてください。

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