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月刊メディカルサロン「診断」

歴史考察:「たった一人」の観点から(中)掲載日2018年8月29日
月刊メディカルサロン10月号

歴史をひとつの大きな流れとみるならば、その流れを変えてきたのは、「たった一人」の勇気であったことがわかります。小さな流れの変化をもたらしたものは随所にありますが、大きな変化を与えたものは、「たった一人」の決断です。
既述した中大兄皇子と源頼朝は、その代表例です。
今回は、私的に選んだ、さらなる2人のうちの一人を挙げたいと思います。

File(3) 織田信長

室町時代末期の戦国乱世の世を収束に向かわせ、平和の世への糸口を作った、まさにその人です。様々なケースで周囲の反対を押し切り、独断的、独裁的行動し、中世の権威主義の破壊者としても君臨しました。
「たった一人」のイメージにぴったり合う人ですので、異論はないと思いますが、私は特に、信長の父、織田信秀の存命中、および、死んだ直後の信長に注目しています。

織田信長が生まれた当時、尾張一国は、斯波義統(しばよしむね)が守護として君臨していましたが、実質的には、守護代2人に分割統治されていました。清州織田家(織田大和守)と岩倉織田家(織田伊勢守)です。
両者は、守護である斯波義統に上納金を納めることにより、名目上、守護のメンツを立て、一応は守護の下知には従う、という体裁をとっていました。「守護の顔を立てて、その下知には従う態をとる」というのが、中世権威主義の実態で、当時の世の中でした(実質的な統治者が、名目上の支配者を殺して、その地位を奪い取ることが、「下剋上」です)。

織田信秀は、清州織田家の被官の一人で、勝幡(しょうばた)城の城主でした。勝幡城の近くには津島の港があり、その港の治安を担当するという名目で、大繁栄している港を勢力下に収め、多くの上納金(関銭、津料)を得て、その財力のもと軍備を整えました。信長が生まれたのは、その勝幡城です。
当時、尾張で大繁栄している港と言えば、津島ともうひとつ熱田港です。織田信秀は、その熱田港を支配している那古野城に目を付けました。同時、那古野城は、駿河の今川氏の一族である今川氏豊の居城でした。織田信秀は、この今川氏豊に謀略を仕掛けて、追い払い、那古野城を奪い取り、熱田港を支配下に置きました。
大繁栄の二港を手に入れた織田信秀には莫大な上納金が入ってきました。信秀は、その上納金の半分を清州織田家に貢いでいました。織田信秀の主筋にあたる清州織田家としては、「信秀が勝手なことをやっておるな。しかし、上納金をきちんと納めているし、さしあたり知らんふりをしておいてやろう」という気分だったことでしょう。

そんな中、織田信秀は、戦を起こしては勝利を収め、東は三河の安祥城、西は大垣城までを支配下におさめます。当時まだ10歳代前半の信長は、父に従って、戦場を駆け回ったようです。信秀は、自慢の息子として、信長をとても気に入っていました。

出る杭は打たれる。
勢力が大きくなった信秀を懲らしめようと、駿河の今川家は安祥城を奪い返すために、大軍を送り込みました。信秀はこの方面で苦戦し、安祥城を失いました。美濃の斎藤道三は、大垣城に軍を送り、ここでも戦端が開かれます。
さらに、信秀が二方面で戦いを繰り広げ、優勢に美濃に攻め込んでいる最中、なんと、足元の清州織田家(織田勝秀)が、よりによって信秀の居城である末森城に、信秀の留守をついて攻め込んだのです。
信秀としては、「そんな馬鹿な!!」という気分だったことでしょう。上納金を納め続けてきたし、自分の妻は清州織田家の重臣の娘なのに、その清州織田家が自分の留守中に自分の本拠に攻め込んでくるなど、まったく想定外のことでした。

絶体絶命の信秀は、駿河の今川氏に熱田の港を譲り、美濃の斉藤氏に大垣城一帯を譲り、「二度と攻め込んだりしません」という約束をして和睦します。この和睦の際には、どういうわけか息子信長は父から遠ざけられていました。
この和睦により、信秀はすべての軍事行動を止め、末森城に逼塞(ひっそく)し、まったく動かなくなります(重病にかかっていたという説もあります)。この頃、末森城の実権は、信秀の妻である土田政子が握っていたようです。土田政子は、信長の弟信勝に家督相続させようと企みます。信勝を清州織田家の婿養子にしようと画策したのです。

さあ、そこからが、その時18歳の織田信長の「たった一人」の本領発揮です。皆さんが信長の立場なら、どうしますか?

状況をまとめると・・・「尊敬していた父が長年主筋として敬っていた清州織田家に潰された。母は嫡子である自分を差し置いて、弟を世継ぎにしようとして画策している。自分はなぜか父に遠ざけられ、会うこともできない。身の回りには、父から与えられた重臣2人(平手政秀、林秀貞)がいるが、自分の意のままにならない。自分が持つ兵は、もともと自分に預けられた兵に過ぎず、父がいなくなれば、自分と生死を共にしてくれるかどうかわからない」

この状態からの信長の動きこそ、男の生き方です。信長は居城の那古野城を出奔し、たった一人で、生まれた勝幡城の勢力圏にある津島の港に移り住み、ガキ大将を演じます。自分の腕力一つで、その地の力自慢たちを屈服させ、自己の独自勢力を築き始めます。この頃のことは、「尾張のおおうつけ」と言われています。
織田家の御曹司であるとはいっても、一族から見放され、たった一人で去った立場であること、弟が跡継ぎになるであろうと見込まれていることは、この地にも伝わっており、後ろ盾がないことは知られていました。
そこで、信長は自己の知力と腕力だけで着々と勢力を築き上げ、直系直轄の子分700人を育てます。父、信秀の死後、その700人を率いて、熱田の港を取り返し、弟信勝派の者を一掃し、旧来の父の部下たちを心服させ、父の仇となる清州織田家を滅ぼし、さらに、岩倉織田家をも滅ぼし、尾張を統一します。
父が中世権威主義の思想の元、主筋である清州織田家を立てていたのに対し、信長は滅ぼす路線を選択しました。権威主義の破壊は、父から得た教訓です。
今川義元が大軍で攻め込んできたときにも、恐れることなく、信長についてきて、桶狭間で義元の本陣を強襲して撃砕し、今川義元を討ち取ったのは、その直系直轄の700人(馬廻衆)を中核とする部隊です。

織田信長の事績は、「たった一人」で居城を出奔して、「大うつけ」と言われながら、自分の腕力と知力だけで独自勢力を築いたことから始まったのです。

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