HOME > エッセイ集 > 「生類憐みの令」と「完全自粛の令」と新常態

月刊メディカルサロン「診断」

「生類憐みの令」と「完全自粛の令」と新常態掲載日2020年6月2日
月刊メディカルサロン7月号

「近い将来、新型コロナウイルスのワクチンが開発され、皆が予防接種を受けるようになる。それに応じて、新型コロナウイルスは撲滅される」
と誰もが予想しています。人類が築き上げてきた科学を信じているのでしょう。
しかし、それが実現されることだと迂闊に思ってしまうと、新型コロナ対策の生活づくりに油断と隙が現れます。
「ワクチンが開発されて、日常生活の自粛などは不要になる」などは夢物語に過ぎないと断定して、「コロナは撲滅できない、つねに身の回りに命を狙うコロナウイルスがいる」と定義して出された「ウィズコロナ宣言」は、心構えとして必要な宣言であると思います。

「生類憐みの令」

新型肺炎の広がりに応じて、緊急事態宣言が出され、外出が極端に自粛され、人が密に接する店や場所の営業が禁止されました。ステイホームの強制です。
ふと、徳川綱吉の「生類憐みの令」を思い出します。戦国時代の「平気で人を殺す」「人の命を軽んじる」「武力が大事である」という殺伐とした風潮が、綱吉の時代にもまだ残っていたのでしょうか。「犬を殺すものは処罰する」「鷹の献上不要」「「将軍御成の際に、犬、猫をつなぐ必要なし」「病気の牛馬を捨てることを禁止」「魚鳥類を生きたまま売ることを禁止」「趣味としての釣りの禁止」などの法令が次々と出され、実際に、切腹、死罪になった人もかなりいたようです。
それらの法令の結果であるのか、あるいはそれらの法令の目的であったのかはわかりませんが、とにかくその法令をきっかけに、武力のウェイトが低下し、文治政治の道へと転換されました。
綱吉の死と同時に、それらの法令は解除されましたが、人々の心の中には何かが残り、以前とは異なる新しい生活様式、新しい考え方が形成されたことでしょう。武士にとっての刀が、人を殺す武器から、嗜み(たしなみ)の道具へと転換されたのもこの頃ではないでしょうか。
変化して形成された新しい日常は「新常態」と名づけられます(この単語は、数年前の中国の株価下落=チャイナショックから抜け出した際に習近平氏が用いたのが最初である、と記憶しています)。

「完全自粛の令」

生類憐みの令に近似して、政府は、「完全自粛の令」を出しました。それによって激変した生活様式は、皆が直接経験しましたので、ここで語るまでもありません。
学校、映画館、スポーツクラブ、公営施設など、人が集会するところは閉鎖され、「接待を伴う飲食」の店の営業は禁止され、飲食店は20時の閉店を余儀なくされました。一つ一つは、生類憐みの令の諸法令と酷似しています。
自粛要請にもかかわらず営業しているパチンコ店は、「名前を公表する」と脅されました。「名前を公表する」というのは、「皆で社会的制裁を与えてください」と言っているのと同義であり、「村八分」の思想に基づくものです。「皆でプレッシャーをかけよう」というものであり、日本では、村八分の思想が、まだ横行しているということを意味します。
時代は変わったはずですが、原理は同じようなものだなあ、と感じます。そんな矢先に、まだ若い女子プロレスラーの自殺が話題になりました。村八分的な思想が関与していなかったのでしょうか。なお、NHKはじめ放送局は「村八分」の単語を放送自粛用語としています。放送自粛とまでされている用語の内容を政府が主導して推奨し、マスコミもそれを支持した、という事実が残ったのは、やむを得なかったのかもしれませんが、悲しい限りです。

守るべきは人命か、経済か

さて、「完全自粛の令」を出すに際して、「何を守るか」を突き付けられ、政府は経済問題との兼ね合いを苦慮したはずです。完全自粛は、再起不能の経済衰退をもたらす可能性を秘めています。
人の命を守ることは、絶対に大切です。新型コロナの蔓延は、死の問題に直結します。政治家にとっては、特に票田である高齢者の命を守ることを第一に考えた、という経歴を残したいはずです。
一方では、経済を維持することは、全国民の死活問題に直結します。今更、原始狩猟生活や原始農耕生活に戻れるはずはないのですから、経済を衰退させず、ほぼ全国民が働き続けている状況を維持することは至上課題です。しかも、経済には、国際競争という喉元の刃が存在します。
この時点では、合理的自粛と完全自粛の板挟みであったことでしょう。経験不足の中ではありますが、合理的自粛がどういうものであるのかを考える時間はありました。しかし、「そんなものを考える必要はない。完全自粛で行け」と皆を突き動かしたのが、診療現場の姿でした。
完全自粛、合理的自粛をめぐる複雑な思惑の中、政府に大義名分を与えたのは、「医療崩壊を防ぐ」でした。国民を納得させる不思議な説得力がありました。医療の偉大さに私は感動したものです。
診療現場で苦労している人たちの姿を盛んにマスコミに放映させ、経済問題に蓋をして、「医療を守らなければいけない。だから、完全自粛、ステイホームでいこう」を納得させたのです。

どうなる?新しい生活様式

さて、緊急事態宣言の中、とりあえず、医療崩壊は避けられ、宣言は解除されました。今後は「合理的自粛とは何か」を模索する展開になります。それにあたっては、「感染重機会」がキーワードになります。
「マスクを外して一緒に会話しながら飲食する」は間違いなく感染重機会になります。「電車の中で至近にいる隣の二人がマスクなしで話していた」も感染重機会と言えそうです。人の集団でも、密閉空間で呼吸量が増えるような場(スポーツクラブやライブハウス)は、感染重機会で間違いなさそうです。
では、呼吸量が増えないで同じ方向を向いている人間集団はどうでしょうか。立ち食いそばで、並んで食べている他人同士の二人は、どうでしょうか。ジョギングしながら通り過ぎあった二人はどうでしょうか。手すりを介して本当に感染するのでしょうか。テーブルは毎回、消毒が本当に必要なのでしょうか。性的関係もある恋人同士が食事するにあたって、真ん中を仕切る透明板は必要なのでしょうか。

医療社会はどう変わるか

合理的自粛とは、必要、不必要を突き詰めた結果、形成されるものです。形成された新しい日常生活が、「新常態」となるのです。「新常態」の自由幅は、同時に治療できる患者数の影響を受けます。
医療体制変革の時間的余裕が与えられた今、医療社会がどう変わるかが問われています。新型コロナだけではなく、今後とも繰り返されるであろう、致死性の新型感染症の流行に備える医療体制の構築です。これには、軍隊と同様で、「日頃兵を養うのは、ただ一度の変に備えんがため」を念頭に置いた変革であってほしいものです。備える規模が大きいほど、「新常態」は自由幅を広げることができるのです。
ここでのキーワードは、「統廃合予定の病院の活用」になりそうです。

エッセイ一覧に戻る