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月刊メディカルサロン「診断」

コロナ禍で露呈した美徳意識の混乱掲載日2020年6月30日
月刊メディカルサロン8月号

コロナが突き付けたもの

働き方改革と消費増税による社会改変の途上で、新型コロナウイルス問題が発生しました。ゴーン逃亡、IR疑惑、桜を見る会などで、マスコミがにぎわっている最中でもありました。
人は仕事をして収入を得て、その収入で生きています。仕事がなくなれば収入がなくなり、生きていけません。幸いなことに、社会保障がありますので、「生きていけない」というのは、通常の生活スタイル、尊厳ある生活を維持できないという意味であって、すぐに命がなくなる、という意味ではありません。

仕事というのは、人の生活に直結している重大事象です。そこには、各個人に幅広い選択権がなければいけません。また、企業というのは、事業目的と会社の性質を掲げてその元に集まった人の集団であり、集まった人に対する企業の意思も重視されるべきものです。
その企業と個人をめぐる働き方における「政府の勝手な改革」を現場に浸透させようとしている最中に、コロナ禍が発生したのは皮肉なものでした。「企業の意思よりも、個人の望みを重視せよ」というものではなく、また、「個人のわがままを抑えて、企業の意思を重視せよ」というものでもなく、「国が定めた決まりを重視せよ」という展開に警鐘が鳴らされたのかもしれません。政府主導の働き方改革には、労働者の美徳づくりが見られません。さまよえる子羊づくりをしているだけです。
就業や労働継続に関して、国が法によって救ってあげなければいけない一群の人々は存在します。しかし、優秀な人材を求める企業と、努力して自分の価値を高めたい労働者が、しのぎを削り合う自由市場が成長してきていたのに、すべての労働者を一括法規の中に閉じ込めようとした流れを私は残念に思っていました。
新型コロナ流行に伴う完全自粛の要請の中で、その労働上の問題を端緒として、日本の弱点や課題、論点が一気に噴出しているように思えます。

10万円一律給付

全国民に一律10万円ずつ給付することになりました。確かに、その10万円がないと生活が成り立たない社会的底辺層が存在します。その人たちが底辺層になったのがなぜか、に関して、教育活動は進んでいたのでしょうか。
法人を犠牲にして、労働者個人を守るための法律が次々とつくられていきました。それらの結果は、法人の内部留保の減少という最終結果に現れます。コロナ禍の中では、内部留保の少ない組織から破綻していきます。
それを守るために、国家主導で、銀行に無利息融資などを行わせていますが、返済しなければいけない借入金が増えて、経営者は喜んでいるのでしょうか。また、その会社から給与を支給してもらっている労働者は喜んでいるのでしょうか。
国家を運営する資金は、企業の内部留保や個人の貯金をすり減らさせて徴収しています。すり減らされた結果、コロナ禍で苦しめられている企業や個人を横目に、自分たちの給与や賞与は絶対確保するという気持ちで対応していますが、それでいいのでしょうか。国会議員の給与や賞与は、国家予算全体では微々たる金銭かもしれませんが、そこに潜む議員の心を国民は見破っています。

日本の労働局に思う

 カナダのサーカス劇団「シルク・ドゥ・ソレイユ」が、破産法の適応を申請したそうです。「会社を守るために、断固とした処置が必要だ」とのことです。従業員を守るための断固とした措置ではなく、「会社を守るため」です。会社が残れば、いつの日か従業員を再糾合できる。会社がなくなれば、従業員たちは未来永劫に行くところがなくなる、ということでしょうか。一方、日本の労働局は、「会社がなくなっても従業員を守れ」と要求しているかのように見えています。
労働局は様々な指摘をしているようですが、その目的は何なのでしょうか。会社の力を弱めることでしょうか。強めることでしょうか。明らかに会社の力を弱める指導をしています。
会社の力を弱めた結果の責任は、誰が被ることになるのかというと、コロナ禍で露見したように、内部留保の少ない会社の従業員です。労働局は、その最終責任を持つ経営者の意向に沿わない指導をしています。
巡り巡って、労働局は、労働者のためになる仕事をしているのでしょうか。それとも、労働者のためにならない仕事をしているのでしょうか。末端の局員は単に、法律がこうなっているから、こういうことをするのが自分の仕事だ、という程度にしか思っていません。そのような人が、会社の命運を握っていいのでしょうか。何の責任も持たないでいい人が、幅を利かせ過ぎではないでしょうか。

日本の美徳、今昔

責任と言えば、「倒産することはない」と思われている国家から給料をもらっている人たちが、心底からのコロナ対応ができるのでしょうか。国家がつぶれる、あるいは、自分の給料が減るという前提があっても同じように対応したでしょうか。すべての政治家が、責任逃れの範囲でしか発言していないことなどを、国民は看破しています。
「自己のすべてを犠牲にして、国家、国民のために尽くす」という美徳意識を持つ国会議員がいないことは、完全に露呈されました。
美徳と言えば、日本は何を美徳としたいのでしょうか。明治維新期には、「富国強兵」のために身をささげる、ということを美徳としていたのでしょうか。太平洋戦争の頃は、「国家に殉じる」が美徳だったのでしょうか。高度経済成長時代は、「会社を成長させるために自己犠牲をする」を美徳としていたのでしょうか。バブル期には、「健康をすり減らしてでも働き抜く」が美徳となっていたのでしょうか。
バブル崩壊後、「失われた20年」と言われ、美徳的なものはないように思えました。東日本大震災で語られた「絆」は、美徳なのでしょうか。給与、賞与を死守しようとする国会議員に、「絆」の気配は感じられません。

社会を構成する人々が、どのようなことを美徳とするべきかが見えなくなっています。今は、「会社を労務面で責める」「政治家を倫理面で責める」「官僚を無責任面で責める」「著名人のスキャンダルを各面で責め立てる」ことを美徳としたいのでしょうか。マスコミを見ていると、そのような気配を感じます。
自衛隊や消防署、警察に入職して、ミスや違反を犯すことなく、勇気をもって定年まで勤め上げたら、美徳とされるようです。しかし、民間の会社では、余計な労働法規のために「何を美徳とするべきか」が不明です。出世すれば、「それはよく頑張った、立派だ」と言われますが、大企業では意欲的に仕事して、若い頃から活躍した人は、いつの間にか排除されています。無事故無違反的に目立たなかった人が、大企業サラリーマンの道を全うし、経営陣になっています。出世と美徳意識は異なるようです。

おわりに

金銭を寄付することが美徳でしょうか。「○○の目的での寄付」のつもりだったのに、寄付した金銭が流れていく過程でどんどん擦り減って、最終目的のところにはちょっとしか届いていないのではないか、という憶測が、邪推であることを望んでいたのに、中小企業持続化給付金をめぐるサービスデザイン協議会の存在は、その憶測に対して、決定的な確信を国民に抱かせてしまいました。私はけっこうな寄付好きでしたが、二度とどこかに寄付しようとは思いません。
新型コロナウイルスは、「何に美徳を感じるか」をめぐって、さまざまな警告も与えているように思います。
なお、私は、「健康管理を学問化する。その中で人のあるべき生き様を説く。孫子の兵法が2500年を経て今でも重宝されているように、2500年後も重宝される健康管理学の書物を残す。その実現のためには、質素倹約に努め、心身を犠牲にして、何も恐れず邁進していく」を首尾一貫した自己の美徳としています。この月刊誌を20歳代の頃から長年、続けていることが、その証です。

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