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月刊メディカルサロン「診断」

国家・企業のあるべき姿…労働をめぐって…掲載日2021年9月24日
月刊メディカルサロン10月号

あなたは耐えられますか?

「ぎりぎりの生活」といえばどんな生活でしょうか。次のような生活を連想してください。
30戸ほどが入る木造長屋の中に4畳半の一部屋を与えられました。風呂、トイレ、キッチンは各部屋になく、共同で利用するものがあるだけです。毎日1~2合のコメと、100gの鶏肉と多少の野菜を与えてもらえます。衣服は寒さをしのげるものが少量のみ支給されます。洗濯機はなく、手洗いで洗濯します。テレビもありません。NHKのラジオ放送だけは、長屋の全部屋に流れています。
こんな生活にあなたは耐えられますか。
この「ぎりぎりの生活」を営むためにも、毎月ある程度の費用が掛かります。人は仕事して労働の対価としてその費用を稼ぐのですが、その費用を稼ぎ出せない人に対して、国家は生活を保障してあげる義務を負っています。そこで、生活保護法を制定して、金銭を支給します。
ぎりぎりの生活に必要なのは、衣食住だけではありません。近年の価値観では、医療も必要です。だから、生活保護受給者は、医療サービスが無料になっています。

どんなときも「食っていける」世の中に

ところで、「食っていける」という俗的な表現があります。「漫才師をやっているけど、その収入だけでは食っていけない」「バイトを併用しながら、どうにかこうにか食っていけるようになった」などです。
この「食っていける」というのは、「ぎりぎりの生活を営むための収入がある」ということを意味するようです。成人したら、まずは「自力で食っていけるかどうか」の戦いが展開されます。普通の新入社員の給料で、都心で生活するのは大変です。子供ができたら必要生活費は増えますので、食っていけるかどうかは重大問題になります。
「食っていけるかどうか」に不安がある限り、人は思い切ったことができません。そういえば、私が若くしてチャレンジャーとして独立創業したのも、「いざとなったら病院のパートや当直で食っていける」という思いがあったからです。人々に安心を与え、さらに社会にチャレンジャーを生み出すには、食っていけるかどうかの不安がない世の中にしなければいけないのです。

日本の労働システム

人には命よりも大切なものがあります。それは自由です。しかし、自由を堪能するためにはお金が必要です。そして、そのお金を得る唯一の方法は働くことです。ここで賭け事や宝くじをイメージしてはいけません。
自由度の大きい生活を望めば望むほど、たくさん働かなければいけません。しかし、自分の望む自由を得るために働くのは、夢があって楽しいのです。ぎりぎりの衣食住を満たすお金を稼ぐために仕事するのは辛いのです。
仕事が楽しくなるためには、「食っていくために仕事しなければいけない」という気分になることではなく、「自由を堪能するために仕事しているのだ」という気分になることなのです。
その辺を見越して、労働のシステムは、「メリットがあるよ」で心を釣っていく仕組みになっています。労働法規は、「やらなければ大変なことになる」という決まり、義務やノルマを与えることを自粛させ、「やればメリットがある」というメリット供与を推奨しています。
そんなシステムは労働部門だけでなく国家全体に波及しており、例えば、コンビニでプラスチックスプーンを受け取らなければクリーンライフポイントを与える、などがあります。

弱体化の一途をたどる日本の企業力

人に働いてもらっている企業の立場ではどうでしょうか。「食っていくために仕事するしかない。イヤだけどやむを得ない」という社員が大勢いたら、その会社は強い会社といえるのでしょうか。弱い会社になるのがわかっているのに今の労働法規は、そのような社員をやめさせることができず、雇い続けなければいけません。
なぜ雇い続けなければいけないかというと、政府の立場としては、失業者を作りたくないからです。失業者がいると、失業給付という出費が必要になります。だから、解雇することを禁止し、その仕事への適性のない者でも、働かせ続けることを要求します。その会社は当然、弱体化します。解雇できないシステムを作れば作るほど、会社は弱体化します。弱体化した会社の集合体として、今の日本社会は成り立っているのです。すると、内需は縮小し、国家そのものが弱体化します。
コロナ禍から出口部分において、アメリカや中国の勢いの強さには感服します。そこに国家の強さを感じます。内需が自動的に拡大する国家システムになっているのです。企業の強靭化と労働という問題において、日本は致命的な間違いをおかしています。

すべての人に所得補償を

そこで、企業を強靭化し、労働者には仕事を喜びにしてもらうためにどうしたらいいか、という問題になります。
手法は簡単で、仕事での収入がない人には、一律で月額15万円などの費用を審査など関係なく、失業と同時に支給できるシステムにするのです。失業者にぎりぎりの生活を保障した上で、企業の解雇権を強化します。
失業したら、すぐに確実に毎月の収入があることが保証されているなら、その金銭は確実に月内に消費されます。つまり、その分、内需が拡大し、企業と国家は強くなるのです。政府側は、給付をケチる必要はありません。
しかし、仕事をしていない人にだけそのような給付を与えると、不公平感が現れます。そこで、「失業したらすぐに給付」なんていう面倒なシステムにしなくても、全国民にもともと月額15万円(金額は要検討)を支給することにするのです。実際的には、その15万円の支給の決定と同時に、住居家賃に対する消費税設定や多少の消費増税が生まれることでしょう。また、その15万円から、NHK受信料や定額医療費3万円などを定めて源泉徴収してしまいます。
仕事をしなくても食べていければ、人は仕事をしなくなるのでしょうか。
「ぎりぎり食っていけるのだから仕事などしない」という人もいるでしょうし、「自由を堪能する」ための資金を稼ぐために仕事したいと願う人もいるでしょう。個性の問題になりますが、ここでモノをいうのは、国民の本能的勤勉性です。

強靭化する企業、活気づく世の中へ

「仕事したくないのに仕事せざるを得ない」という気持ちが社会を弱体化させるのです。「仕事したくない人は仕事しなくてもいいよ。ぎりぎり食っていくことはできるよ」というのが大切かもしれません。全国民に毎月いくら支給するという制度があれば、「イージーハイアード・アンド・イージーファイアード(容易に採用され、容易に解雇される)」の社会へと変貌するのです。そして、年金、失業給付、生活保護法、最低賃金法、学生支援機構などは不要になり、行政システムは簡略化します。有能な公務員が野に下って民間企業を強化します。
「働かざるもの食うべからず」という文言が大きな間違いなのです。「働かなくてもぎりぎり食っていける」というのが、実は国家が推奨する「あるべき姿」なのです。国家がそこへの出費を惜しまなければ、国民は安心して消費生活を楽しみ、内需は拡大し、GDPは増え、行政機構は簡略化し、企業は強靭化され、さらに最終生活の保障の中で、社会的チャレンジャーが現れて活気づいた世の中になるのです。

ただ、今の政治家や役人にそんなことを言っても自分個人の損得計算では損なので、「どこ吹く風」かもしれません。

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