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月刊メディカルサロン「診断」

日本国、何がいいのか悪いのか掲載日2022年7月1日
月刊メディカルサロン7月号

日本ってどんな国だ!?

現総理大臣が、日本の経営者を集めて要請しました。
「従業員の賃金を上げてほしい」と。
要請するその姿は、テレビを通じて全国に放映されました。極秘裏に要請するのではなく全国に放映させたのは、国民の多数を占めるサラリーマンに好意を持ってほしいからであるのは言うまでもありません。「私は皆のためにこんな努力をしている」と見せて、好意を持ってほしいのです。

しかしその映像は、世界中に伝わりました。それを見た世界の人々はどう思うのでしょうか?
「日本は労働者の賃金が上がらない国」とストレートに伝わるだけならいいのですが、その内容は、経済の発展に伴って賃金は自然に上がるのが当然とする資本主義のメカニズムが日本においては機能していないことを意味しており、それを世界中に布告してしまったことにもなります。
「日本っていったいどんな国だ!?」と世界中の有識者に思われたかもしれません。
優秀な人材は、どの企業にも求められています。それは常識です。優秀な人材とは、能力だけでなく、「この会社と運命共同体となる」などの多少の自己犠牲をいとわない心得を持つ者のことでもあります。
「自己犠牲は絶対にお断りする。働いた会社からは収奪を徹底的に試みる」という者は、従業員として受け入れられないのは世界共通のことでしょう。

ここが妙だよ日本国

なぜ日本においては、賃金が低く抑えられているのでしょうか。その理由は簡単です。解雇することができない国だからです。
日本は、「一度採用したら解雇できない」という労働行政上の方針を採用しました。失業者をつくりたくないという背景があったからでしょう。失業率が高くなると、世界に向かって顔向けできません。だから、「解雇できない」という方針を採用し、一度採用したら解雇するなという圧力を企業にかけ続けました。
仮に、「企業側の都合で簡単に解雇してかまわない」という方針を採用したらどうでしょうか。
企業側としては、給与報酬に見合わない仕事ぶりの者は解雇すればよいということになり、賃金をどんどん増やすことができます。賃金を増やして、その賃金に見合う従業員が残り、見合わない従業員は解雇すればいいだけです。優秀な従業員は、高い賃金で企業内の自己の役割を果たすことになります。そして従業員は、役割を果たすための努力を意識するようになって、その意識のもとに努力するから能力が向上します。その辺が、資本主義、自由経済のメカニズムです。
現総理大臣が「賃金を増やしてほしい」と要請するのは、資本主義メカニズムが労働部門において正常に機能していないことをさらけ出したことになるのです。
総理大臣が経営者に向かって賃上げを要請せざるを得なくなったのですから、長年の労働行政は間違っていたことになります。しかし、ということは、厚労省か政治家が悪いのでしょうか?
ここが日本の不思議なところです。官僚や政治家で、「失業者をつくらないために企業の従業員を解雇してはいけないという方針を定め、それを行政に反映させる」と声高に語った人はいません。つまり、労働行政のリーダーシップをとって、「こうあるべきだ」と語った人はいないのです。何となく国家全体の望み、あるいは官僚の義務心、あいりは政治家の思惑の中でムードが醸成され、その方針が設けられて、何となく行政の中に反映されてきたのです。だから、責任者はいないということになります。

何となく・・・は昔から

総理大臣が「資本主義経済の原理が機能していない」と発表してしまったことが一因かはわかりませんが、円安が進行しました。そんな矢先にその総理大臣は、海外の会合に出席した際に次のことを語りました。
「日本は投資価値のある国です。日本に投資してください」
確かに人件費が安いのなら、投資価値があることになります。欧米ではコロナ禍後に人件費が急騰して、企業収益の悪化が懸念されて景気低迷のリスクが語られている最中です。しかも円安が進行していますので、投資効率は良いことになります。
賃金が安く抑えられた日本は、実は再興の可能性を秘めていたことになります。巡りめぐって、いったい何がいいのか悪いのかよくわかりません。全体のムードに任せておけば大きな敗北はなく、「何が幸いするかわからない」という状態に持ち込めるのかもしれません。
何となくムードをつくる。そしてそのムードの代弁者が全体を差配する立場に就く。強いリーダーシップではなく、何となく皆の意見を取りまとめる立場で、そのポジションに就く。
歴史では、石田三成がそうだったのかもしれません。何となく反徳川のムードをつくり、その同調者を集結させていく。そして何となく全体の代弁者的な立場になり、全体と同調して動いていく。石田三成には決して強いリーダーシップがあったわけではありません。
しかし、最後におそらく余計なリーダーシップを発揮しようとしたのでしょう。お膳立てまではよかったのですが、リーダーシップをとろうとして自己の意見を押し通した瞬間に、敗北へと落ち込みました。
石田三成が最後までリーダーシップを発揮しようとせず、ふねふね、もやもやと全体のムードに任せて代弁者の立場を貫き続けたのなら、局所に過ぎない関ヶ原という場所における決戦は存在しなかったかもしれません。となると徳川家康は、大軍を率いたまま小競り合いを続けて、京都や大阪に向かうことになったのでしょうか。
関ヶ原の決戦がなくなった場合、徳川家が豊臣秀吉の住む大阪城に向かえば、軍からの離反者が相次いで、途中で軍は解体されたかもしれません。関ヶ原の15年後の大坂の陣においても、豊臣郡と戦ったのは徳川直系の部下達だけであったと言っても過言ではないのですから。

良かれ悪しかれ「面白い国」

日本においては、「こうあるべきだ」を語ってその主義や主張に従わせようとするリーダーシップを発揮する者は、何かの評判で最初はもてはやされますが、心底ではあまり受け入れられずにいつのまにか排斥されます。日本の総理大臣の多くがそうであったように思います。ただ一つの例外は、郵政改革の総理だけだったかもしれません。
「こうあるべきだ」の内容が過半数に感銘を与えたのでリーダーシップを発揮できる立場に就けたのですが、半数に満たなかった方からは、その者の枝葉末節をとらえて排斥を試みるターゲットになります。また、「こうあるべきだ」の内容が成功しそうになると、今度はその者の功績になる妬みから、もともとは賛同していたはずの過半数の中からその者を貶めようとするものが現れます。「こうあるべきだ」を語らない現総理大臣の支持率は上がってくるかもしれません。
このような日本はいいのか悪いのか・・・。いや、いい悪いではなく、それが日本であると割り切らなければいけないのでしょう。
しかし一方では、「こうあるべきだ」の信条を持つ小集団が国家体制からの迫害を切り抜けた時、急激に巨大化して、国家の内部構造を変革してしまうのも日本であります。
大化の改新(中大兄皇子)、鎌倉幕府の成立(源頼朝)、戦国時代の終焉(織田信長)、明治維新(薩長)などは、それにあたります。

日本はあいまいで抽象的で、それでいてときどき画期的なことが実現される面白い国だと思います。

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