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月刊メディカルサロン「診断」

おかげさまで10年経ちました月刊メディカルサロン2002年8月号

「本来こうあるべきこと」と現実

田中康夫知事と長野県議会とのもめごとが熱くなっています。この原稿を執筆している段階では、不信任案が可決されたところですので、どのように収束されるのかはわかっていませんが、要約すれば、「本来、こうあるべきだ」と主張する田中康夫氏と、「現実は、すでにこうなっているのだ」と主張する県議会側との熱い戦いの気配が濃厚です。

打ち出す理想が、現時点では現実化困難であるのに田中氏に妥協する姿勢がみられないということと、さまざまな既得権益との軋轢を田中氏が理解できていないという点から、田中氏の姿は独善的に映る、というのが議会側の言い分でしょう。議会側の立場にたてば、田中氏の様子は、昔、社会党(当時)の土井委員長が「ダメといったらダメ」と言い放ち、耳を貸さなかったときの様子と似ています。

戦後50年以上かけて築かれた複雑な社会構造を、1年や2年で改造するのが難しいのでしょう。田中氏の理想は、理想として優れたものでしょうが、実行するための準備が乏しいのも確かです。彼が主張する改革的行動は、10年の下準備の上で行動に移すタイプのものかもしれません。任期4年という制約のためか、やや急ぎすぎで、目標行動実現のための時間構想の立て方は稚拙に感じます。

つまり、実業家なら本能的に身につけている、目標行動への時間構想計画の設定の概念が、作家である田中康夫氏の心の中には乏しいのでしょう。しかし、県民の支持は大きく、田中氏の存在そのものが、地方政治、ひいては国政への理想実現に向かうジレンマ解決への一里塚として価値があるものと、私は認識しています。

大胆な選択が意義ある医学分野の確立へ

さて、平成4年7月にメディカルサロンを開設して以来、ちょうど10年が経ちました。10年前の私は29歳でした。医療システムに対する批判が高まり、「医療不信募る」などと、マスコミが盛んに叫びだした頃、慶應病院の内科外来を担当しながら、「現時点の医療構造の延長上に、マスコミが求めるような理想を実現するのは不可能だ。いったん、野に下ってでも、単身であっても、医療構造改革に取り組んでいこう」という赤心をもった年齢でした。
頭の中に浮かぶ構想は、大胆なもの、急進的なもの、常識外れのものなど多々ありましたが、当時、想い考えたあげくの最終判断は、家庭教師スタイルで医療上の問題点とされる説明不足を解消していこうというものでした。

この選択は、保険医療制度に守られた医師の収入制度の中では、苦労が多くなるのに収入にならないため、医師がもっとも避けようとする選択であったに違いありません。しかし結果的に、その選択が生涯主治医制という顧問医師システムを生み出すと同時に、「健康管理を指導する」という会員制医療へと発展し、健康管理学という新しい医学分野の確立へとつながりました。

私が30歳のときに、所属していた消化器内科学教授が変わりました。あれからわずかに10年足らず。もうその教授が引退する日が近づいてきました。あっという間です。教授は就任していたわずか10年の期間で何ができたのでしょうか(失礼!)。その教授が医学会の成長を願っていたとしたなら、戦後50年以上の期間で培われた風習の重さだけを実感しした10年だったのではないでしょうか。

私が29歳で大学組織と一線を画してメディカルサロンを開設したことに対し、当時は無茶なことをしたものだと悩んだこともありました。しかし、今思えば、若い頃から行動してきてよかったと思っています。私はまだこの先、30年を見据えて医療構造改革に取り組んでいくことができるのですから。

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