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風本流医療構造改革・論議編

その4「生活困窮者のための国営医療機関群の設立」

3割の自己負担を支払えない患者たち

病気になっても、病院にかかれない子供たちが増えている、という報道が目に付くようになりました。3割の自己負担が重くのしかかり、病院には行かず、学校の保健室に行こうとする傾向です。
バングラデシュの田舎を見てきたことのある私としては、まだ日本のほうがはるかにましだと思いますが、そんなことを言っている場合ではありません。これは、国家としては重大問題なのです。経済対策を優先させざるを得ない社会背景であることも理解できますが、医療社会で生きてきた私としては胸が痛む問題です。

その対策として、小児医療に対する助成金を授けよう、などの動きが自治体で見られます。しかし、問題の根源は小児医療の対策ではなく、生活困窮者への医療対策です。

本来の国立病院の意義

国立病院などの公営の医療機関が独立行政法人化され、徐々に消滅する動きを見せています。もとの国立病院の経営に対する取り組みが甘く、莫大な赤字国庫負担があるからという理由でした。国立病院は不要なのでしょうか?

私はその問題の根源は、経営が赤字になったという結果論ではなく、国立病院の設立目的にあったと思っています。医療社会は、高度先進医療という言葉についつい惑わされてしまいます。つまり、設立目的の視点が医学を原点としているのです。患者を原点としていません。国立病院も数多ある大病院と同じ機能を有しているだけなのです。私が言う「同じような病院が乱立している」の一つに過ぎなかったのです。
患者を原点としたなら、患者層を検討したうえで、患者層別に設立する病院の目的を検討しなければいけないということに思いつくはずです。つまり、どのような患者層を対象にするか、というところを明確にして国立病院を設立しなければいけないのです。

歴史上の為政者の中に「医療は患者が中心だ」と心の底から思っている人がいなかった結果かもしれません。あるいは、国民皆保険制度などが国民総中流意識の時代に定着したからかもしれません。過去の施策が時代の変化に対応できなくなった、といえば、それだけの問題に帰してしまいます。

私は、今の日本の医療事情を「非統制的乱立状態である」と明言しました。これは同じような病院ばかりが並び、内科や外科などの科別の分類しかなされておらず、同じような病院が富裕者から生活困窮者まで、重傷者から軽症者までのすべてを対象としている、という意味です。

生活困窮者のための病院

そこで、日本社会には、生活困窮者だけを対象とする国立病院群が必要になります。その病院群の存在意義は、自衛隊や警察と同じです。診療時の会計を不要にする、というのが最大のキーです。「赤字か黒字か」というのは、売上が存在するから生まれる概念です。その概念を蚊帳の外の問題にします。会計が存在しない病院群、受診できるのは生活困窮者の認定を受けた者に限る、という病院群を開設することが国家の急務です。
そんなものをつくると、「通院しなくてもいい患者まで通院しようとするではないか」、「生活困窮の認定を受けた者と受けられなかった者とに不公平が生まれるではないか」などの疑念がわいてきます。また、「その病院群の維持費が高騰するのではないか」という警戒心が起こります。ところが、そうではないのです。そこが医療社会の面白いところであり、不可解なところでもあるのです。

この国立病院群は、生活困窮者の治療にあたると同時に、以下の内容を併せ持ちます。

  • 受療内容へのクレームを認めない組織にする(クレームを言いたい人は有料の民間病院へ)
  • 新人医師(研修医)の育成の場にする
  • 患者クレームが認められない状態で多数の症例が集まるので、研究活動を盛んに行うことができる(人体実験とは一線を画す)。したがって、外来担当医は大学研究施設から格安で招くことができる。→その外来で研修医は優秀に育つ
  • 会計不要の中で、採血以外の検査はめったに行わないようにして、医師の診察技量向上の場にする
  • 正々堂々の治験実施の場にできる(選ばれた患者には原則的に了承してもらう)
  • 利用できる既存医薬品を一系統一薬品に絞り、製薬会社からの医薬品の納入価格を特別格安設定にする
  • 一患者への定時薬の種類を3種類までに絞らせる→医師の処方工夫の原点である
  • 当該地域における生活困窮者への在宅医療(訪問医療)の拠点とする

収支的には、現時点の国民医療費のうち10兆円分ぐらいを引き受けて、6兆円の出費で運営できるようにする、という設計をイメージします(数字は検討課題です)。そしてそのような設計図になるよう生活困窮者の認定レベルを検討します。財源は、消費税になるかもしれませんが、この目的なら国民は納得してくれるでしょう。

この国立病院には、採血、検尿のほか、通常の単純X線、超音波程度の検査設備があればいいでしょう。眼科、耳鼻科系、婦人科系なども最小限の設備に限らせます。設備投資は、少なければ少ないほうが優れていることになります。なぜならば、検査設備が少ないほど、医師と患者のふれあいは深まり、また、医師の診察技量、説明能力が深まるからです。これは、私が身をもって体験しています。国立病院に「高度先進」などの体裁は不要です。

一方、「緊急的に高度な検査が必要なときはどうするのか?」という問題が生じます。ここで、また私の医療構造改革八策の一つ、「無料で受診できる救急医療センターを作る」というのが活きてくるのです。

「救急体制」どうあるべきか

生活困窮者のみが通院できる国立病院群の中から、どの国民も無料で緊急受診できる救急センターを選定するのです。ここで実施する救急医療は、外科手術を含めて特別に高度な内容にします。ただし、この救急センターは、「完全回復か、死か」を前提とする治療の場にします。その治療方針に不満がある場合は、民間の救急センターを利用してもらいます。

「今の日本の医療は、同じような救急病院が乱立している」というのはどういうことかというと、「救急時、患者側のもともとの意思、思惑に応じて搬送される病院が異なるという仕組みになっていない」ということなのです。救急医療現場には、「普通に治療すれば、生きながらえるけれども重度の生活不便が残る。しかし、命を失うかもしれないけれども、うまくいけば完全回復できる可能性のある治療がある」という治療選択が随所に存在します。医師側が勇気を持って後者の治療選択をし続ける救急センターを選定するのです。患者側が「この救急センターに搬送してほしい」という意志を持った瞬間、患者側は治療結果に対して決して不平、不満を言ってはいけない、という定めにします。この前提条件の救急医療センターが完成したら、日本の救急医療レベルは世界のトップになります。

救急センターのあり方については、またの別の機会にじっくりと語っていきます。

実現のために

このように語っていると「そんな夢のようなことが実現できるはずがない。日本の医療社会の現状を知らないから、そんな夢物語を語れるのだ」と言う人が現れるでしょう。ところが、そんな人が唸り声をあげるしかなくなるような、「実現のためのスーパーアイデア」があるのです。その辺は次回以後にお話します。

また、生活困窮者を除いた残りの医療体制がどうあるべきか、という問題が残ります。ここに医師会や大学病院の大活躍の場が出てきます。それも後々にじっくりと語っていきます。

さらに、治療入院と介護問題との峻別が要求されます。これも後の話題です。

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